|
セント・ジョージ要塞(英語:Fort St. George)は、1639年にインドで初めて建設されたイギリスの交易所兼要塞〔Roberts, J: "History of the World.". Penguin, 1994.〕。インド・チェンナイ(マドラス)の沿岸都市の基礎の築いた要塞でもある。 元々誰もいない砂漠化した場所に、さらなる入植と貿易の活性化促進のための交易所の建造を準備し、もっともらしい主張を説きイギリス東インド会社は徐々にこの町を要塞化することを進めた。 ==概要== 1600年頃、貿易活動のためにインドに入ったイギリス東インド会社は、スーラトで貿易の許可が出ることで始まりそこに初期の砦を築いた。どんなに安全を確保しても香辛料貿易での貿易航路と通商事業では、マラッカ海峡に近い商港の必要性を感じていた。 1639年、イギリス東インド会社は候補地の領主ダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカが独自にマドラスパッティナム(Madraspattinam、マドラス)(チェンナッパトナム(Chennappatnam) という説もある)と呼んでいたインド亜大陸沿岸部の一部を買収する事に成功し、その場に港と要塞の建設を始めた。 そして、1644年、その要塞はセント・ジョージの日と同じ4月23日に完成し、イギリスの守護聖人セント・ジョージの栄誉を祝った。このことからこの要塞は、セント・ジョージ要塞と名づけられ、海といくつかの漁村に面した立地は即、商業活動拠点になった。 要塞はジョージタウンと呼ばれた新しい入植居留地を生みイギリス東インド会社にもたらした。また要塞は農村を囲むように成長しそしてマドラスシティの構造の方向性を決定した。イギリス東インド会社はすぐにカーナティック地方へのイギリス人の入植を推し進め、アールッカードゥとシュリーランガパトナの君主ともやり取りした。同様にフランス軍もセント・ジョージ要塞に対するためポンディシェリーに拠点を置いた。 18世紀には敵からの攻撃に抵抗出来るよう、セント・ジョージ要塞は6メートルの高い壁に強化された。 また、1746年から1749年には一時的にフランスの植民地に組み入れられたが、オーストリア継承戦争終結後のアーヘンの和約を締結した後にイギリスに返還された。 今日、要塞はインド・タミル・ナードゥ州の立法議会本部として、そして南インドとアンダマン・ニコバル諸島など多様な場へ輸送を行うための軍の駐屯地として行政利用されている。その他、要塞資料館は歴代イギリス東インド会社総督の多くの写真を含む英領インドの多くの遺物を収容している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セント・ジョージ要塞 (マドラス)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|